怪我のときのマインドの持ち方【指導者・お父さんコーチ向け】

こんにちは。監督です!

今日は友人から「怪我をしてたときにどんなマインドやったんか?」って質問をいただきました。

 

結論から言います。「できることして、時を待って耐えるしかない」です。

 

いま社会でどう生きているか?

サラリーマンや、野球指導者・教師など経験して、結局大人としてお金をもらうのは、人の貢献をしたからだと思っています。誰かを喜ばせたり、幸せにするために仕事があります。今日質問くれた友達は会社を経営してますが、「結局仕事って誰かを喜ばせたり、誰かの課題解決しなあかんやろ。その対価がお金やん??」っていつも話しています。僕はけがをして、周りのサポートをしたことは、社会人になっても生きていると思えます。

 

小学校5年生のときにケガ

僕は小学校のときにずっとピッチャーをしていました。投げることが大好きで、先輩の試合のときにも先発や中継ぎをさせてもらって、とても毎日楽しく野球をしていました。父親ともキャッチボールをするときも絶対にピッチングをしていたのですが、コントロールもよかったので、監督からピッチャーに起用してもらったんですね。たまにダブルヘッダーなんかもあって、多い時には1日4試合とかありました。そのときは8−9イニング投げてた記憶がありますが、なぜ4試合全部投げさせてくれないの!?なんて監督に思っていましたよね。

そんなときに、試合中急に肩が痛くなって、肩が上がらなくなりました。コーチからは将来あるから、この試合はもういいからベンチに下がってろ!って言われて泣いてベンチを暖めていた記憶があります。

その試合以降は僕も試合でピッチャー行くことが少なくなり、親にもコーチや監督に「ピッチャーいきたいって言うてーや」なんて言っていましたね。

親からは「あんたの将来を考えて投げさせないみたいだよ?」って言われて、将来とかええし、今投げさせろ!なんて思っていました。その頃はおそらく1ヶ月したら肩が治っていた記憶があります。

中学2年生のときにケガ

毎日が紅白戦の楽しいチームにいました。ポジションもどこ守っても良いという自由な中で、当然ピッチャーにいきたいので、毎日マウンドに上がっていました。中学生からは変化球も解禁。カーブ・スライダー・フォーク・シュートなど、色々な変化球を投げていましたね。(たいしたことない変化球だったと思います。笑)

ある夏の日、肘が痛いなーと思っていましたが、マウンドに上がりました。カーブを投げたときに「ブチッ」という音がして、肘が曲がらなくなりました。

あとあとわかったのですが、靭帯が損傷していたそうです。(高2でレントゲン・MRIを撮ったときにそれがわかりました。)

そのときから監督には「休んでおけ」と言われましたが、早く治したい一心でしたが、バッティングだけでも試合に出たいなんか、思って必死に打撃練習してました。でも怪我以降、代打でも出してくれない監督に「俺だけ出さへんのはおかしい」ってふてくされました。(17人の同級生、全員試合には出場していて私だけ、ずっとベンチを温めていました。)

中学2年の時のリハビリ

京都田辺のときにメインの練習は、紅白戦とノック・基礎トレーニングでした。ノックはアメリカンノックが主流で、監督が動体視力を鍛えることが大事と言っていて、走りなが捕るというトレーニングばかりしていましたね。

また坂基礎トレーニングって伝統ある練習があって、同級生の紅白戦を見ながら、ずーっと下半身トレーニングしてましたね。

中学2年の冬のリハビリ

監督からそろそろ投げなさいと言われて、まだ痛いのに。。と思いながら投げはじめました。そしてサイドスローを投げる練習をしなさいとも言われ、コーチに「肘が痛いのにサイドで投げる意味がわかりません!」と言ったところ、監督は「いろんな投げ方をすることで、可動域が広がると思っているんだよ」と言われ納得できなかったけど、頑張った記憶があります。

中学3年生ではジャイアンツカップに出場

そんな肘をかばうために、3年生のときはあまりピッチャーをやらないでいました。基本ファーストばかり守っていましたが、結果的にジャイアンツカップもいけて、良い思い出は作れました!

高校2年生のときにケガ、そして手術

高校に入学すると「投手がしたい」「俺がピッチャーで甲子園連れてってやる」と思ってピッチャーを目指しました。ジャイロボールが流行っている時代で、メジャーの茂野吾郎に憧れ、ジャイロボールの投げ方を習得したくて、書店で本を漁りました。当時手塚さんの出されていた魔球の正体やジャイロボールの投げ方のDVDを読み漁り、ジャイロボールを投げていました。(たぶん今でいうカットボール)

あるとき、肘が痛くなって、検査をしたところ、肘が剥離骨折してる、手術が必要で、肘にボルトを打ち込んで野球することになると医師から宣告を受けました。

手術を終えたあとは、学校の校舎周りをひたすら走っていました。毎日5−6キロ走っていましたね。

 

高校3年生では4番で、夏の大会準優勝

3年生になると投げ始めることができて、もうピッチャーはしないと宣言しました。それ以降はバッティングを頑張って、打ちまくって甲子園行くぞ!と思っていましたね。最後の夏は、燃え尽きて終えることができました。

怪我をしたときのマインドの保ち方

毎日が苦痛で、憂鬱です。でも野球はチームスポーツです。選手としてチームに貢献できないのなら、裏方でできることを探すしかありません。怪我をするといつも母親に誓っていたような気がします。「チームの裏方でがんばるわ、いつもレギュラーで出てないチームメイトってこんな気持ちやったんやな。俺絶対レギュラーになるし、裏方の仕事は今しか経験できひんし、がんばるわ」って言っていたような気がします。母も「いろんな仕事ができるってのはあんたにとって良い経験やから、辛いかもしれんけど、頑張り!」って励まされた気がします。

いま怪我している人たちへ、最後にメッセージ

腐らず頑張れば絶対に良いことがあります。人生辛いことばかりではなく、良いことも起きます。いまはリハビリなどで辛いかもしれまえんが、チームのサポートを頑張っていれば、今度は周りがあなたをサポートしてくれるはずです。友達の練習を手伝ったり。マネージャーの仕事を経験してみたりして、裏方に回ってみて、貢献していってみてください!誰かがあなたの頑張りを見てくれています!だから今は歯を食いしばって、できることをやろう!って伝えたいです!